昭和45年09月29日 朝の御理解



 御神訓 一、「神は声もなし形も見えず疑えば限りなし 恐るべし疑いを去れよ。」

 なるほど、神様は声もなし、形も見えない、疑えば何処までも疑われる。限りがない。けれども恐るべし疑いを去れよと。神の実在を信じて生活をする。神の実在を無視し又は知らずに生活をする。そこんところに、どういう開きが出来て来るか、これは現世、私共の生きておる、世界だけの事を云うても、大変な違いが、そこから生まれて来るだろうとこう思います。
 ましてこの世だけの事ではない、あの世の事までも思うたら、信心と言う物は、大事なものであるかと言う事を分かります。神は確かに声もない、姿も見えない。だから誰しもが姿も声もないのですから分からないと云うのが、一番誰でも同じ事だろうと思う。いわゆる何んにもない。その何んにもない所から、神様を体認して行くというか、分からせて頂くと云うのですから、そんなら理屈の上で分かった神様では仕方がないですからね。矢張りそれが自分の心にその神様を頂いて行く。それが信心なんです。
 昨日竹葉会でしたが、大変難しいお話をさせて頂きましたが、本当に有り難い事は、私がいっぱしの難しい事をお話をして、皆さんが大体分かって下さると云う程しの、竹葉会自体が成長しておる事を大変有り難いと思うと云うてお話しした事です。いわゆる、神の実在と言った様なものを本当に、私が信じておる限りの神様を聞いてもらってそれを矢張り「これは、親先生のお話を頂かねば分からん」と言った様にその分かって下さると言う事。分かると言う事。それは神様をそこに認めると言う事になる。
 そこでま色々お話の中に嫁姑というよりも、家庭の中にあっての嫁の立場と言った様なもの。 そこに非常な難儀な問題が、いわゆる人間関係の上に問題が出て来ております。それを例えば信心で受けて行くと深刻な問題を抱えておればおる程、それでも有り難い事だ。今こそ神様が分かる時である。今こそ云わば神様を信ずる力を頂く、云わばチャンスに恵まれておる時である。
 成る程親とか兄弟、ただ夫婦だけで別れて生活をしておる人達には、到底味わえない、分からない事が多かろう。中には例えば麻生さん。麻生さんの奥さんなんかは、もう本当に主人と子供水入らずで暮らしておりますから、他の方達の話が分からない位に、云わば楽な所を通っておる。殆どの人がそういう家族構成の中にですね親子兄弟と言った様な中に様々な問題を抱えております。
 その問題を信心でいかに有り難く受けて行くかという事が、ま差し当たっての若嫁さん達の問題になっておる訳であります。ま話した事でしたけれども。誰しもがそういうその、又自分達も段々年をとって、又若い人達の世話にならなければならない時があるのですから。本当に家(うち)のおばあちゃんだけは、例えば居ってもらわにゃ困ると言う様なおばあちゃんにならなければいけませんなというて話した事です。
 赤裸々にお話をして、しかも皆が信心のある家庭で御座いますから、本当に有り難い有り難いと言うておるようであっても矢張りそこには、若い世代と年をとった人の考え方の相違と言った様な事が、何とはなしにそこに問題をかもしておりますね。そこでその私達がです、段々年を拾わせて頂いて、本当にま今日は家(うち)の若嫁さん達ばかりですから。良いおばあちゃんにならにゃという気でおるならば、良いおばあちゃんだけではない、良いおじいちゃんにも一つお互いがならなければならない。
 いわゆるどういう考え方の違った世代の相違があってもです。例えばこれは私の方の家庭を何時も例に申しますんですけれども、私の考え方と、又は年を取っての考え方、又子供達の考え方。中にこういう事を発表しておる人があります。のお母さんがその息子さんの修行に世話をやくちゅう訳です。もう親心というですか、御飯を食べよっても、嫁さんが居るのにおつゆついでやるともおばあちゃん。お漬物つぐとお醤油をつけてやるともおばあちゃんという訳なんです。
 まるきり、嫁御は居ったちゃ居らんでんよかごとある。その感じ。ある時酔っぱっらて主人が帰って来た時なんかは、もう子供達でももう、かまわんちゅうごたるふうで放ったらかしておいたら、おばあちゃんが起きて来て「そげん酔っぱらって帰って来てるのに構いもせん。」と言って色々構われる。そして嫁御がま云うなら気が付かんとか、ま、そういう風に不平不足を言われる。
 例えばそういう、なら事柄はその人の家(うち)だけではなかろうと思いますけれども、私の方当たりもやっぱりそうです。もう私の母なんかはもう世話やき過ぎるくらいに、私の事を色々世話を焼いてくれます。それからというと、ま家(うち)の家内の場合には、一つもそれがさわっていない。又私にも一つもさわっていない。母もそれも当たり前の事としてそれをしておる。
 まあ結局家(うち)の家内がボヤっとしてから、感じないからかもしれない。あなたの場合は矢張り中々気が利いて、取んなさいますから、そのピンピンお母さんのされる事が響いて来るのかもしれないけれど、そこにはね何にもない。そういうその、ものが何処から生まれて来るかと、出て来るかと言った様な問題なんかも取り上げられますとね。結局は私達が、いわゆる信心によって改まり、信心によって、分からせられるところがある、ところに実は何にも、さわらないのが本当だけれども。
 その自分の心が障っておると言う事になります。そこで私は昨日お互い最近ここで願えとと言う事が盛んに言われます、その願えと云う事の一番現在で難しい所を解らせて貰う。その根本の所がお互い解ってないからでなかろうか。昨日私教報が参りましたので見せて頂いておりましたらこういう記事が出ておった。金光大神教祖様ですね。畑徳三郎という偉い先生がおられまして。そん先生がこう言う事を言っておられます。
「この天地金乃親神の根源も又、天地金乃神である。この根源の力が我々の上に円満に現れたのが、生神金光大神であり、その生神金光大神たる、我が教祖の神によって天地金乃神を拝する、いわゆる拝む事が出来る様になったのである。」天地金乃神様は云わば今日もここにあります様に、声もなからなければ、形もない。所が教祖金光大神の生きられ方によって天地金の神様を拝む事が出来る様になった。
 しかもここん所にね、その天地金乃神様が、円満に現れなさった姿が生神金光大神であると、ここん所が有り難いですね。その天地金乃神様はこういう風に言っておられます。「天の本性、地の心儀」と。これは天地金乃神様、天地の神様、目にも見えなければ、声も聞こえない神様をですねその様な風にキャッチしておられる訳ですね。これは畑徳三郎先生に、これはよく憶えておいて頂くといいですね。
 天の本性というのは「本性を表した」という本性です。それから地の心儀とは「地の心のご祝儀の儀」です「天の本性、地の心儀」と。ここん所をなら天の本性とはどういう本性なのか、と。それをここでは私が「天真地心」と言う様な言葉で申しておりますね。天の真ですね天の真。地の心と云う様にいわゆる。では天の本性と言う事を、ここでは、それをもう少し具体的に説明しておられる。
 天の本性というのは、そのままが「真」だと。いわゆる与えて与えて与えきっておる、それが天の本性だと。しかもそれは無条件に与えておるのだと。しかもそれを私共は「真」というのだと。それで私共はその話を聞いて、天の心が分かって、天の心を自分の心の中に頂いて行こうと。地の心儀とこれは難しい言葉で云っておられますけれども、地の心とここでは云っておられるですね。
 「天真爛漫」「地心水心」という風に私はいっております。天の心、いわゆる与えて与えてやまない、限りない美しい、無条件の心。そこには、それこそ天真爛漫と見られる程しの働きが頂けるものであるという事。地心水心、地の心儀と云う事は地の心というのは、いわゆる黙って全ての事を受けて行くと言う様な心。又は水心、水の心、その形に従う、素直な性情。いわゆる素直な心。
 そういう心を天地合わせての心だと。そこで私共はそう云う、天地の心を心としての生活をさせて頂く事に、改まって行く。いわゆる「天地日月の心になる事肝要なり」と言う事になって来る。だから「天地日月の心になる事肝要なり」というそれをどう言う事かというと、「実意丁寧神信心」と金光大神の御信心で表現するとそう言う事になる。実意丁寧神信心、それが天地日月の心だと。いわばそれがそのまま天地の心を心としての生き方だと言う事になる。
 そういう例えば生き方の中にですね、問題はなくなって来るんです。天地日月の心になる天真地心。後は天の本性地の心儀と言った様な事が分って来る。天の本性が分って来る。地の心儀と言う物が分かって来る。それが私は話を聞かなければ解らないと言う事だと思うのです。しかもここん所にそういう天地のですね働きというものはね、今日はここん所はそれを疑えば限りなし、恐るべし疑いを去れよと言うておられます。
 天地の働きというのはそれこそ善い事悪い事につけて、すさまじい事になって来るのです、この天地の働きというのは。それを信心はすさまじいまでの天地の働きをよい意味あいにおいて受けていこう、キャッチして行こうというのが信心なのです。少し難しいですね。そういうすさましい善(良)いを、善い悪いと言うとおかしいでしょうけれど、善い悪いという言葉を使いましょうかね
 。そういう両面をもって、働き通しで働いて下さるのが天地金乃神だった。そういうすさまじい働きをですね、もう本当に人間氏子の為にですね、円満に現れなさったのが生神金光大神だと、こう云うなら喝破しておられる訳であります。天地金乃神と同魂と確かに天地の中にはですね、知って向かえば命を取り、知らずに向こうても目をとるという程しのですね、そういう働きがやっぱりあっておる訳ですよ。それを教祖の神様は教祖の神様御自身の上に円満に天地の親神様が現れなさった。
 只、実意丁寧を人間が、尽くしてさえいけば、神様は只、氏子可愛いの一念だけしか、おありにならないのだ。これはバチをかぶったのであろうか、これは神様の御怒りを受けたのではなかろうかと、例えば、言うたり思うたりする事すらもなくなっておられる。いわゆる、円満に現れていると言う事。それをここでは「すべてが神愛」と言う風に、大坪総一郎の上には現れておられる訳です。難儀と言う事はない。全てが神愛だという風に現れておられる。
 疑いを去れよ疑えば限りがない。恐るべし、疑いを去れよ、と。教祖の神様御自身がその様に天地の親神様を円満な神様として現しなさった。それには天の本性、地の心儀と言う様な天地の、まあ言うならば合わせての心と言った様なものを私共の心の上に頂いて行こうとするのが御道の信心だと。神は声もなし姿もなく疑えば限りがない。けれども誰しもが一応は初めから神様を信じて生まれて来た者はない。おりなさるやら御座らんやら、そんな事は分らん。
 分らんけれども、それが教祖の場合で言うと、いわゆる実意丁寧という、その実意丁寧な心がですね、うたがうにもうたがう余地のない程しに、神様をピッタリ頂いておる訳です。そこのところがだんだん深くなって行く人を信心が深くなって行くんだと言う事になる。信心をしておってもそのいうならば、実意丁寧の反対の横着、又は我が儘、そんな事を平気でやってのけておる人がある。いわゆる神を恐れぬ不届き者だと言う事になるんじゃないでしょうかね。
 だからそういう人の家にはどうしても神様が遠いものになって来る。けどもそこの所、実意丁寧に頂いて行こうとする姿勢。そういう姿勢を身につけて行く人の家に神様がです。最近言われる願う事にそれに応答、一つひとつに答えて下さる程しにおかげを持って見せて下さる。まあ私共は幸い、合楽に皆さん御神縁を頂いて成る程、声もなかなければ姿もない、その神様をいわゆる生神金光大神の姿の中に神を感じ取られる事が出来、その生神金光大神と言うても、まだうん分からない人があるけれども、
 ここでは皆さんがなら、私大坪総一郎その人を見て「成る程神様じゃな」と「成る程神様の働きじゃな」というのを身近に見たり感じたり出来られると言う事は大変幸福な事だと思うですね、皆さん「成る程神様じゃな」と「成る程神様のおかげを頂いて御座る人だな」「神様の働きを現して御座る人だな」と私を見て下さればそれが分かる。そこに疑う余地はないと信心を進めて行かれる人達の姿が皆さんの姿であります。
 ですからこれを、うんなら皆さん、久富繁雄さんという方がおられるから、久富繁雄さんが、繁雄さんの心の中に現れなさる天地の親神様。又、ここん中にこう言う事も書いてあります。昔は教祖の時代は御神格というものがあって、皆が御神格を受けておったと、それは自分の心の中に天地の神様が宿って御座るからだと。その神様が信心の進むに連れて神格を高めておいでられた。今の時代にはそれを神と言う事を表現する事は許されませんから出来ないけれどもと、ここに書いてあります様にです。
 だから事実はある訳です、だから確かに私の心の中には天地金乃神と同じものが心の中にあるんだけれども、いうならば我情又は我欲と言った様な事でです。その天地金乃神の本性というかね、天の本性も地の心儀も、心の中にお互いあるのだけれども、それを覆い被せておる物が、私共の垢にまみれた者の姿であるとこう思う。その垢が信心によって段々取れて来る。日々の改りが大事であり、本心の玉を研くのが信心だというふうな所に焦点を置いて、実意丁寧神信心が出来て来る所にです。
 例えば久富繁雄さんなら繁雄さんの上に現れて来る所の神様がいわば、円満にしかもおかげを現して来る所から「成る程、神様じゃなぁ」「成る程、神様を働きを受けて御座る人じゃなぁ」「神様の働きを表して行って御座る人じゃなぁ」と言う事が分かる。久富繁雄さんを見れば神様を疑う訳には行かんと言う所までです。んなら久富繁雄さんだけじゃありません。皆さん一人一人がそういうおかげを受けていかなければならんと言う事が分かります。
 只あっちはよう働きなさるから、例えば儲けだしなさったというただけでは成る程、神様じゃなぁという風にはならんでしょう。けれどもあれ程しに矢張り打ち込んで御座ったが、成る程神様が現れなさった神様を表す事が出来たというおかげを頂いた時にです。初めて「成る程、神様じゃなぁ」と「成る程、信心じゃなぁ」と言う事が分かる所まで、めいめいがおかげを頂いて行かなきゃいけない事になります。
 そこん所を私は、金光大神の上に天地の親神様があの様に円満に現れなさった。大坪総一郎という、言わばつたない信心ではあるけれども、只一心不乱、もうこの神様にお縋りする他にはないとして、一心にお縋りさせて頂いておる所から、私を見れば、成程神様を疑うわけにはいかんと言う所になって来た。私を見れば成る程、神様じゃなぁとこの御造営が出来上がった時に、村内の方達が初めの間は「あれはもう大体出来るとは、出来るとじゃろうか」とそれはそうでしょうね。
 二年間もかかって、○○?毎日何かありよるけれども、これも途中で止めるとじゃなかろうかと思う状態を周囲から見ておるとです。そんな風に見えたでしょう。所が段々、段々出来上がって参りまして、なら此の様な御広前が、御神前がお庭が出来て参りましたら「やっぱり神様じゃあるの」という風に云うておられるのをある人から聞いてから、私に話して下さった事があった「成る程、神様じゃあるの」誰ーれにもいわば宣伝しない。どこ何処の建物と看板いっちょ出していない。どこ何処の神社仏閣なんかで「さあ瓦一枚ずつでも寄進してくれ」という風に書いてある。
 そう言う事も書いてはない。私がお供えの事を皆んなにいっちょん言うた訳でもない。それでも矢張り段々、出来上がっていうのを見てですね、やっぱり神様じゃなと言う事になって来た、いわば私を見れば神様を疑う訳にはいかん、信じる訳にはいかんと云う様にです、段々おかげを頂いて来たのが「合楽、合楽」というて、皆さんが集まってみえれる由縁にまでなって来た。だから合楽の魅力は私はそうだと思う。教祖金光様はこうだとか、天地の親神様がこうだと。
 理屈でどんなに噛んで含める様に教えてもです。その天地の親神様の働きを現さなければ、私は本当の意味では皆んなついちゃこないと思う。それこそ例えばこれを反対に言うたら恐るべしと恐ろしいまでの働きなんだ。所謂すさましい迄の働きをいわば合楽では現しておる訳であります。どうぞ皆さんの心の上にも、天地の親神様は皆さんの心の中に宿って御座るその宿って御座る神様が、今まで過去の材料というかね。
 又は生活の中から我情我欲で一杯汚して来た心を綺麗にしようと言う事に努めさせて頂く所からです、神様の光が現れて来る様になる。そこにはね神様の働きを現して行く事が出来る。又働きを自分の家にもすさましい迄に頂く事が出来る。もういわばあの人を見とれば、神様を疑うわけにはいかん、疑う余地はないと言う事にまでなって来る。そこに私は神様の願いというものも、掛けられておるとこう思うのです。
 只ねそのおかげさえ頂けば善いと言う様な事ではね、本当のおかげ言わばすさましい迄のおかげには絶対なって来ないです。だからそれは一生信心がある者もない者も大して変わらんじゃないかと言う様な事にしかならんです。けども本気で私共がです。天の本性地の心儀と言う様な所をです。天の本性を本性として私共の本性にまで高めて行くと言う様な、地の心をそのまま私共の心とまで頂いて行けれる生き方の中にです。
 神様が現れて下さる。しかもそこに円満に現れて下さる。そういう私はおかげを頂かせてもらわなきゃならない。神は声もなし形もみえず疑えば限りなし、恐るべし疑いを去れよ。とね。恐るべき疑いを去れよ、だからその疑いを去るまでが矢張り信心である。そんなら結局その疑いを去る為には自分自身が実意丁寧神信心をひとつ行じてみなければ、それを自分の家に神習わして行かなければ、収めて行かなければならない。
 信心の稽古とはそう言う事なんだ。そう言う稽古をして行く所に疑おうにも疑われるはずない疑う余地がない事にまで高められて来る。しかもその信心がおかげがです今度は信心のない人にまで「あの人を見とれば神様があるないは言われんなぁやっぱり神様は御座るんだなぁ、やはり神様じゃなぁ神様の働きじゃなぁ」と、云う所まで高めて行けれるというのであります。最後に恐るべしと結んでおられるのはそう言う事だと思うんですね。   どうぞ